個人サイト Otearai Web 作者 nagura

 1974年京都府生まれ

平日はサラリーマンまがいの勤務をこなすかたわら、自サイトその他で腑抜けた駄文を連ねています。現在吸っているタバコはマイルドセブン(理由は安いから)。酒を飲むと気が大きくなってマルボロを買ってしまい、翌朝後悔することが多い。

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先日、マイケル・ムーア監督の『シッコ』をDVDで観た。

ご存知の通り、現在のアメリカ合衆国が抱える医療問題についてメスを入れたドキュメンタリータッチの作品である。いろんな意味でまことにアメリカらしい作品であり、昨今のタバコ問題ともども考えるところが多くあったので、今回はその感想を書き連ねてみたい。

政府による健康保険制度がないアメリカで保険診療を受けようと思えば、前もって民間の保険会社に加入しておくしかない。保険会社の高額な掛け金を支払えない人たちは、いざ病気になっても高い医療費を支払えず、とうてい満足な治療を受けられない。仕事中に電気ノコギリで切断した指を(医学的には再びつけ直せるにもかかわらず)金銭的理由からあきらめた労働者の実例が映画の中で紹介されている通りである。

ならば民間の保険会社に加入している人は大丈夫かといえば、そうでもない。保険会社はなるべく医療費を支払いたくないから、あの手この手で理由をつけて支払いを拒否する。交通事故で意識を失って救急搬送された際、あらかじめ本人が救急車使用を申請していなかったという理由で、10万円以上の搬送料金を全額自己負担させられた被保険者の実例が映画の中で紹介されている通りである。

医療制度が利益最優先集団である民間企業に委ねられると、保険に入れない人はもちろん、入れる人ですらロクな医療を受けられず悲惨なことになってしまう。他方、イギリスやカナダ、フランスなどの国々は政府による国民保険制度が充実していて、いくら医療費がかかっても自己負担額はゼロ。さて、あなたならどっちを選びますか!? …という皮肉に満ちた作品がこの『シッコ』である。

作品中で挙げられたようなひどい例は実際、アメリカでは日常茶飯に起きているらしい。日本の医療は10年遅れでアメリカを追いかけていると言われているから、我々にとっても決して対岸の火事ではない。こうやってアメリカ医療の暗部と歪みが白日の下にさらされたことには、対外的にも大きな意義があると言えるだろう。

ただ、ムーア監督の描く「医療費の自己負担=悪、政府負担=善」という対比の構図は、問題をあまりに単純化してしまう結果、最も大切な部分をかえって見えにくくしているように感じるのだ。

もちろん我々国民にとっては、医療費の負担額は少ないほどいい。富める者が貧する者にどれだけ手を差しのべているかは、その社会の成熟度を推し量るひとつの指標とも言えるだろう。病気で苦しんでいる弱者を見殺しにするような国家は、どう転んだって文化的先進国にはなりえない。

だが、人間性善説を前提とした公的な医療保険制度には、問題点もたくさんある。たとえば費用対効果を無視した非常識な医療利用の問題、たとえば労働から逃れるために繰り広げられる詐病の問題、などなど……。事実、ムーア監督が理想郷として挙げるイギリスやカナダ、フランスといった国々は(そして日本も例にもれず)深刻な医療費問題を抱えている。

非常識な医療利用の例としては、タクシー代わりに救急車を使っている市民の存在をメディアでご覧になったかたも多いだろう。そこまでいかなくても、医療機関が高齢者の交流の場になっている実情はしばしば見聞きする通り。「今日は○○婆さんが診察に来ないねえ。どこか調子でも悪いのかしら」なんていう小咄が有名だが、こういう受診が日常化すれば膨大な医療費が税金から支出されることになる。

また詐病の例としては、本当は目が見えるのに見えないとウソをついて補助金を受給していた輩の存在をニュースでご存知になったかたも多いだろう。交通事故で「むち打ち症」と診断されたのをいいことに痛みを訴え続けて、ずっと失業補償をもらい続けたというような話もよく耳にする。これらは病気であることが自分の利益となることに端を発しており、身体表現性障害(学校に行きたくないとお腹が本当に痛くなる式のやつ)なども含めて「疾病利得」と呼ばれる現象である。

三島由紀夫はかつて、「治りたがらない患者は病人たる資格ナシ」と喝破した。病気というのは元来、患者本人が苦しんでいて、その状態から脱したいと自らが望んでいる状態を指すのであって、医療保険制度や補償制度があるために病気でいることを自ら望む者が現れるのは、制度自体が内包する矛盾であり、歪みであると言わざるを得ない。

人間を含めた動物は、元来「なまけもの」なのだ。なるべく楽をしたいという欲望は、元はといえば厳しい生存競争を生き延びるための合目的的なプログラムだったろうし、楽できるところで苦役を選んでエネルギーを消費する自己犠牲的な個体は、自然淘汰によってとうの昔に滅びていったに違いない。

現代社会においては、こういった原始的欲求よりも社会的欲求(承認欲求など)のほうが優先される傾向にあるけれど、我々の身体メカニズムや本能プログラムは原始時代からほとんど変わっていない。楽できるところがあったとき、我々が安きに流れるのは、むしろ当然の現象だと言ってもいい。

そして最も大切なのは、原始的欲求よりもモラルや良識が優先されるような社会を、いかにして作りあげていくかではなかったか。病気でいるよりも働いていたいと皆に思わせる動機づけを高めていかなければ、いくら政府が医療費を全額負担したところでバランスを欠いた社会になるのは自明だろう。

ムーア監督が理想として掲げる医療費の全額公費負担は、人間性善説に基づいたものだ。一方、現在のアメリカ医療は経済至上主義に基づいていて、これは見方を変えれば人間性悪説に基づいているとも言える。残念ながら世の中は、人間性善説ですべて片付くほど立派ではないし、かといって人間性悪説だけで突っ走ると、本当の弱者を排除するような殺伐とした社会になってしまう。

人間の人格的成熟を示す指標のひとつに「曖昧さ耐性」(ambiguity tolerance)というのがある。物事をハッキリと白黒つけられない曖昧な状況に耐えて、その中で前に進んでいける力のことを指す言葉であるが、今のアメリカ社会にはこれが決定的に欠如しているように思えてならない。現在の医療保険問題にしても、性善説と性悪説のグレーゾーンの間で葛藤しながら、よりよい道を模索していくという曖昧さ耐性がないから、「合衆国政府 VS ムーア監督」という両極端な構図になってしまうのではないか。

思えばタバコ問題にしても、その発端はアメリカの強迫的な嫌煙ムーブメントに見てとれる。かつてはあれだけプカプカと煙を吐いていたアメリカ国民が、今度は手のひらを返したように禁煙、禁煙とまくしたてる。嗜好品全般が持つ「健康と不健康のグレーゾーン」を引き受ける曖昧さ耐性は、そこには微塵も存在しないのだ。